白洲正子

青山二郎は「韋駄天お正」と呼んだ

樺山伯爵家の次女として、東京に生まれる。

父方の祖父・樺山資紀は薩摩出身の軍人・政治家。正子も、自分に薩摩人の血が流れているのを強く感じていたという。幼時より能に親しみ、14歳で女性として初めて能の舞台に立つ。その後、アメリカのハートリッジ・スクールに留学。帰国後まもなく次郎と結婚する。互いに「一目惚れ」だった。

西国巡礼のころ 戦後は早くより小林秀雄、青山二郎と親交を結び、文学、骨董の世界に踏み込む。二人の友情に割り込むために、飲めない酒を覚えるが、そのため三度も胃潰瘍になるなど、付き合い方は壮絶。加えて銀座に染色工芸の店「こうげい」を営み、往復4時間の道を毎日通っていた。この店からは田島隆夫、古澤万千子ら多くの作家が育つ。青山に「韋駄天お正」と命名されるほどの行動派で、自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかった。次郎と同様、葬式はせず、戒名はない。

Masako's Episodes

「私は不機嫌な子供であった。今でいえば自閉症に近かったのではなかろうか。三歳になっても殆んど口を利かず、 ひとりぼっちでいることを好んだ」。白洲正子はみずからの幼少時代を、こう回想しています。

正子がこの世に生を享けたのは明治四十三年一月七日。樺山伯爵家の末っ子は、甘やかされたお嬢様とは、わけが違っていたようです。
「小学校へ入る前に、富士山に登りたいといってダダをこねたのも、十四歳の時に一人でアメリカへ行くと いってゴネたのも、あばれん坊の白洲次郎と結婚させなければ家出をするといっておどかしたのも」、その表われでしょう。

勝ち気で負けず嫌いの少女は、それまで女人禁制だった能の舞台に立ち、アメリカではスポーツに明け暮れ、帰国すると まもなく、互いに「一目惚れ」で白洲次郎と結婚。二男一女をもうけます。戦火迫る東京から鶴川村に移転したのは、 昭和十八年のことでした。

鶴川の生活はのんびりしていましたが、正子は一介の主婦におさまってはいられませんでした。 戦後早々、小林秀雄・青山二郎・河上徹太郎の「特別な友情」に猛烈な嫉妬を覚えて、「どうしてもあの中に割って入りたい、 切り込んででも入ってみせる」と決心します。

正子の後半生を決定づける出会いでした。「切り込んで」というのは、 あながち誇張した表現ではないでしょう。「割って入」ろうとするたびに、言葉で痛めつけられ、酒が呑めないと罵られ、 泣かされたあげく、三度も胃潰瘍になって血を吐いたというのですから。

朝から明け方近くまで、東奔西走(とうほんせいそう)する正子を、青山二郎は「韋駄天お正」と命名しました。 「韋駄天お正」の健脚ぶりは、後年になっても衰えを知りません。『西国巡礼』『かくれ里』『近江山河抄』 『十一面観音巡礼』といった名紀行を生む旅は、五十代なかばから、六十代にかけてのことでした。険しさをものとも しない足どりは、しばしば若い同行者を驚かせています。

ただ足を運ぶのでなく、社寺であれば本殿、仏閣のさらに奥に、 何かあるはずだと、藪をかきわけ、道なき道をたどらずにはいられない。天性のカンだったのでしょうか。さも当然の ような書きぶりですが、そうした「発見」は、白洲紀行の大きな魅力です。

七十歳を迎えようとするころから、正子はかけがえのない人たちを矢継ぎ早に失います。青山二郎、河上徹太郎、小林秀雄、 そして夫・次郎まで。哀しみは察してあまりあるでしょうが、この世とあの世の境など、もはや意味をもたなかったのかも 知れません。

八十になんなんとしてなお、能楽師・友枝喜久夫の「おっかけ」と称して、九州まで追って行き、ほしい骨董はないかと眼を 光らす。骨董買いは最晩年まで続きましたが、親子といえどもライバルで、譲るといった手心は加えなかったそうです。 白洲正子の生涯は、最期まで「真剣勝負」だったのです。

縁あって交友録

樺山資紀
Sukenori Kabayama

正子の父方の祖父。薩摩藩出身の伯爵で、海軍軍人、政治家。戊辰戦争、台湾出兵に参加。西南戦争では涙を飲んで西郷軍と戦った。警視総監、海軍大臣を歴任。

樺山愛輔
Aisuke Kabayama

正子の父。実業家・貴族院議員。資紀の長男。13歳で渡米。アーマスト大学卒業後、ドイツのボン大学に学ぶ。帰国後は国際文化人として多くの企業や団体で活躍した。

樺山常子
Tsuneko Kabayama

正子の母。海軍大将、海軍卿として「薩の海軍」の基礎を築いた川村純義の長女。純義は海軍を辞した後、皇孫(昭和天皇と秩父宮)の養育掛りをつとめた。

青山二郎
Jiro Aoyama

美に生きた天才。通称「ジィちゃん」。若くより骨董の目利きとして知られ、中原中也、小林秀雄らと親交を結ぶ。

小林秀雄
Hideo Kobayashi

評論家。29年、『様々なる意匠』で文壇にデビュー、大作『本居宣長』にいたるまで、常に文学界をリードした。

河上徹太郎
Tetsutaro Kawakami

評論家。小林秀雄とならぶ近代批評の先駆者。軽井沢の別荘が隣り合っていたことから、先に河上夫人の知己を得て親交を深める。

細川護立
Moritatsu Hosokawa

肥後熊本藩主細川家直系16代の当主。細川護煕元首相の祖父にあたる。侯爵。晴川と号す。貴族院議員、国宝保存会会長等を歴任。

秩父宮勢津子
Setsuko Chichibu no miya

秩父宮雍仁(やすひと)親王妃。旧会津藩主の松平家に生まれる。正子とは学習院女子部初等科3年で同級となって以来、生涯の友となる。

梅若実(2世)
Minoru Umewaka

明治の3名人に数えられた初世梅若実の次男。21年、兄万三郎らとともに梅若流を樹立。48年、長男六之丞に六郎を継がせ、2世実を襲名。

友枝喜久夫
Kikuo Tomoeda

能楽喜多流シテ方。熊本生まれ。友枝家は熊本藩主細川家お抱えの能楽師の家筋。喜久夫は喜多流宗家14代喜多六平太に師事。

安田靫彦
Yukihiko Yasuda

日本画家。日本橋に江戸時代から続いた料亭の家に生まれる。14歳で大和絵師小堀鞆音(ともと)に入門。1907年岡倉天心を中心とする国画玉成会の創立に加わる。

梅原龍三郎
Ryuzaburo Umehara

洋画家。京都の染呉服商の家に生まれる。浅井忠に師事し、1908年に渡仏。翌年ルノアールの門をたたいて指導を受けた。13年、帰国。

熊谷守一
Morikazu Kumagai

1900年東京美術学校西洋画選科に入学、同期には青木繁がいた。09年文展で「蝋燭」が褒状。母の死を契機に帰郷し、木曽で5年間を過ごす。15年上京し、制作復帰。

広田 煕
Hiroshi Hirota

東京日本橋に叔父松繁(号:不孤斎)が創業した骨董商「壺中居」の2代目主人。戦前より青山二郎、小林秀雄らと交わり、青山には叔父の号をもじって「腹黒斎」と命名された。

秦 秀雄
Hideo Hata

料亭主人・骨董商。井伏鱒二の小説『珍品堂主人』のモデル。戦前、北大路魯山人と星ケ岡茶寮を営むが、喧嘩別れをして独自に目黒茶寮をつくった。

白洲正子の本