旧白洲邸武相荘オープンにあたって
父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。
近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けておりました。
私は両親を親としてしか見た事がなく、同じ様に私が育ち、両親が人生の大半を過した現在の茅葺き屋根の家に対しても、ただ家という認識しかありませんでした。
ふと気が付くと近隣は大きく様変りしていました。暗くなるまで遊んだ小川、真赤に夕焼けした空にたなびくけむり、あちこちに、ひっそりと咲いていた野花の数々など、すべて姿を消していました。また点在していた茅葺き屋根の家々もほとんどみることがなくなりました。同時に私の両親の様な人々も消え去っていきました。
ただそのものとして見ていた茅葺き屋根の家や両親の様な人々が既にあまり残っていないのではないかと思うようになりました。
六十年近く一度も引越しもせず、幸か不幸か生来のよりよくする以外現状を変えたくない、前だけ見て暮したいという母親の性格のせいか武相荘は、それを取りまく環境を含めほとんど変っておりません。
このたび色々な方々の御力添えによって、過ぎ去っていった時代を皆様にも偲んで頂きたく、旧白洲邸武相荘をオープン(2001年10月)致しました。
牧山桂子