白洲次郎と白洲正子の年譜

1902(明治35)年 次郎0歳

次郎/2月17日、父・白洲文平(ぶんぺい)、母・芳子(よしこ)の次男として兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に生まれる。白洲家は元禄時代から歴代、儒者役として三田藩九鬼氏に仕えた家柄。祖父・退蔵は維新後、三田県大参事、正金銀行副頭取、岐阜県大書記官を歴任、福沢諭吉とも親交が厚かった。文平はハーヴァードを卒業後、ドイツのボンに学んだ折、正子の父・樺山愛輔(あいすけ)と面識を得た。綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築く一方、家に大工を住まわせるほどの建築道楽だった。

1910(明治43)年 次郎8歳/正子0歳

正子/1月7日、父・樺山愛輔、母・常子(つねこ)の次女として東京市麹町区(現・千代田区)永田町に生まれる。樺山家の屋敷はジョサイア・コンドル設計の洋館で、黒田清輝の「湖畔」「読書」がそれぞれ客間と食堂を飾っていた。父・愛輔は実業家・貴族院議員。アメリカのアーマスト大学、ドイツのボン大学に学ぶ。帰国後は国際文化人として多くの企業や団体で活躍した。父方の祖父・資紀(すけのり)は薩摩藩出身の伯爵で、海軍軍人、政治家。西南戦争では涙を呑んで西郷軍と戦った。警視総監、海軍大臣等を歴任し、武勇伝と「蛮勇演説」でならした。母方の祖父・川村純義(すみよし)も同じく薩摩藩出身の伯爵。海軍省設立にあたり海軍大輔に任じられ、後には宮中顧問官、枢密顧問官に列せられた。明治天皇の信任厚く、皇孫の養育掛(かかり)を命じられ、他界する直前まで後の昭和天皇、秩父宮を訓育した。その功あって、死去にさいして大将に任じられている。

1913(大正2)年 次郎11歳/正子3歳

正子/学習院女学部幼稚園に入園。《私は不機嫌な子供であった。今でいえば自閉症に近かったのではなかろうか。三歳になっても殆んど口を利かず、ひとりぼっちでいることを好んだ》(『白洲正子自伝』)。

1914(大正4)年 次郎12歳/正子4歳

正子/初めて能の手ほどきを受ける。

1916(大正5)年 次郎14歳/正子6歳

次郎/4月8日、神戸一中に入学。同級には作家・初代文化庁長官の今日出海(卒業前に転校)、中国文学者・吉川幸次郎らがいた。野球部とサッカー部に在籍、乱暴者としてならし、アメリカ車ペイジ・グレンブルックを乗り回した。《神戸一中という全国的に可成り有名な秀才学校があった。私も何年かいたのだが私にはあまり楽しい学校ではなかった。私は秀才でもなかったし、こういう学校では厄介者の不良でもあったから》(「同級生交歓」)。
正子/4月、学習院女学部初等科入学。

1921(大正10)年 次郎19歳/正子11歳

次郎/3月5日、神戸一中を卒業。時期は不祥だがイギリスに渡り、留学に備える。

1922(大正11)年 次郎20歳/正子12歳

正子/2月8日、祖父・樺山資紀没(84歳)。《祖父は眠るがごとくに永眠した。その前夜か、或いはその明け方であったか、子供ながら不安なおもいに堪えかねた私は、表へ出た。祖父と一緒に通いなれた散歩道である。ふと気がつくと、今や月が富士の肩に沈みかかっている。刻一刻、ついに、まったく、 没してしまった。と、今まで影のごとくにうっすらと浮かんでいた霊峰は、突如輝きを増し、烏羽玉の空にきらきらと、その全身を現わして行った。そこにはふだんの富士の優雅はなく、美しいというよりむしろ悽愴をきわめた》(『心に残る人々』)。この年、帝国劇場でアンナ・パヴロヴァのバレエ公演を観る。《それはただ美しいとか哀れとかいうようなものではなかった。彼女の魂は既にこの世から去り、ぬけがらのような肉体が舞台の上でふるえていた。ふつうの人とは違う繊細な神経が、手足の先まで電流のように通っており、冥界からのメッセージをたえず見物へ送るかのようであった。この世には、この世とは別の世界がある、――子供心にそう感じた》(『白洲正子自伝』)。

1923(大正12)年 次郎21歳/正子13歳

次郎/ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学。中世史を専攻し、将来は学者を志していた。イギリスでは、ベントレー、ブガッティと2台の車を所有し、レースに熱中。ともに「オイリー・ボーイ」であった後の7世ストラッフォード伯爵ロバート・セシル・ビング(愛称ロビン)と終生の友情を結ぶ。

1924(大正13)年 次郎22歳/正子14歳

正子/3月、学習院女学部初等科修了。晩夏、能の舞台に立つ。《父は私のようなお先っ走りを日本においといては危ないと思ったらしい。アメリカへ留学することを勧めるようになり、もちろん私は大乗気であった。ただ、お能と別れるのが辛くて、身を引裂かれる思いであったが、出発する前の舞いおさめに、『土蜘(つちぐも)』の能を父がプレゼントしてくれたので、あきらめることができた》(『白洲正子自伝』)。
9月、父と渡米し、ニュージャージー州のハートリッジ・スクールに入学。

1925(大正14)年 次郎23歳/正子15歳

次郎/年末から翌年始にかけ、大学の冬休みを利用して、親友ロバート・セシル・ビングとともにベントレーを駆ってジブラルタルをめざすヨーロッパ大陸縦断の旅に出る。

1926(大正15・昭和元)年 次郎24歳/正子16歳

次郎/ケンブリッジ大学クレア・カレッジを卒業。大学院をめざす。

1927(昭和2)年 次郎25歳/正子17歳

正子/4月、金融恐慌で父・愛輔が理事をしていた十五銀行が休業宣言。樺山家は永田町の屋敷を売却し大磯に移る。

1928(昭和3)年 次郎26歳/正子18歳

十五銀行倒産の煽りで白洲商店が倒産したため、大学院に進んでいた次郎は、帰国を余儀なくされる。同じく正子も女性の最難関大学であるヴァッサー・カレッジに合格しながら、進学を断念して帰国。ふたりは知り合う。

1929(昭和4)年 次郎27歳/正子19歳

11月、白洲次郎・正子結婚。《もちろん仲人はいないのだから、次郎が一人で、東京クラブにいた父に「お嬢さんを頂きます」と引導を渡しに行った。「頂きたい」のではなく、「頂きます」と決めていたのが滑稽である。父はしぶしぶ了承したと聞くが、親の心情なんか無視していたのが今となっては羞しい》(『白洲正子自伝』)。次郎の父・文平から結婚祝いに贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に出る。
12月3日、正子の母・常子死去(54歳)。

1935(昭和10)年 次郎33歳/正子25歳

夏、軽井沢の別荘の隣に住んでいた河上徹太郎夫妻の知遇を得る。10月23日、次郎の父・文平死去(66歳)。《死んだという電報が来たので、妹が行ったら、ベッドに独り死んでいて、ベッドの下を見たら、棺桶が入っていた。それはほんとの田舎で、身体が大きいから、出来合いの棺桶ではあとの者が困るだろうというので、前からつくってあったのだ。こういうことも皆傍若無人の現われといえよう》(「日曜日の食卓にて」)。

1937(昭和12)年 次郎35歳/正子27歳

次郎は日本食糧工業(後の日本水産株式会社)の取締役に就任。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは英国大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。加えて近衛文麿の政策ブレーンも務めた。

1941(昭和16)年 次郎39歳/正子31歳

12月8日、日本海軍機動部隊がハワイのオアフ島真珠湾を奇襲。太平洋戦争が勃発する。

1942(昭和17)年 次郎40歳/正子32歳

10月、日本の敗戦と食糧危機を見越して東京郊外鶴川村(現、東京都町田市能ケ谷町1284)に、茅葺きの農家を農地つきで購入。武蔵と相模の国境いに位置することから、無愛想をもじって「武相荘」と名づける。

1943(昭和18)年 次郎41歳/正子33歳

5月、鶴川村へ転居。10月、戦火を免れるため梅若家より先祖伝来の能面・衣装などを預かる。次郎は終戦までもっぱら農業に勤しむ。

1945(昭和20)年 次郎43歳/正子35歳

5月23日の東京空襲での罹災を心配して次郎が河上徹太郎を訪ね、翌夕、家を失った河上夫妻を伴って鶴川に帰る。以後2年間、河上夫妻は武相荘に寄寓した。8月14日、日本はポツダム宣言の無条件受諾を決定。翌日、天皇の玉音放送により国民に知らせた。12月、吉田茂外相の要請で、次郎が終戦連絡中央事務局参与に就任。同事務局はGHQ(連合国最高司令官総司令部)と連絡調整する日本側唯一の機関で、以後、サンフランシスコ講和条約の発効まで、次郎はGHQとの折衝の矢面に立つ。

1946(昭和21)年 次郎44歳/正子36歳

2月13日、GHQが新憲法総司令部案(マッカーサー草案)を日本側に渡す。15日、次郎はGHQのホイットニー准将宛に「ジープウェイ・レター」をしたため、検討に時間を要することを説く。2月下旬、2名の外務省翻訳官とともにマッカーサー草案を翻訳(外務省仮訳)。《原文に天皇は国家のシンボルであると書いてあった。翻訳官の一人に(この方は少々上方弁であったが)「シンボルって何というのや」と聞かれたから、私が彼のそばにあった英和辞典を引いて、この字引には「象徴」と書いてある、と言ったのが、現在の憲法に「象徴」という字が使ってある所以である。余談になるが、後日学識高き人々がそもそも象徴とは何ぞやと大論戦を展開しておられるたびごとに、私は苦笑を禁じ得なかったことを付け加えておく》(「吉田茂は泣いている」)。3月1日、終戦連絡中央事務局次長に就任。4日から5日にかけ、GHQビルにおいて徹夜で憲法案の逐条審議を行なう。6日、日本政府はマッカーサー草案をベースとした憲法改正草案要綱を発表。7日、憲法案作成の過程を「白洲手記」につづる。5月、第1次吉田茂内閣成立。晩秋、河上徹太郎の紹介で、小林秀雄が武相荘を訪問する。小林が編集する「創元」創刊号(12月刊行)に掲載予定だった吉田満「戦艦大和ノ最期」がGHQの検閲で全文削除されたため、出版に向けての交渉を次郎に依頼するのが目的だった。正子は、青山二郎(45歳)とも出会い、ふたりの影響で骨董の世界に踏み入ってゆく。12月18日、次郎は経済安定本部(経済企画庁の前身)次長を兼任。

1947(昭和22)年 次郎45歳/正子37歳

6月28日、吉田内閣総辞職にともない、次郎は終戦連絡中央事務局次長を退任。

1948(昭和23)年 次郎46歳/正子38歳

10月、第2次吉田内閣成立。12月1日、次郎はマッカーサーの「お名指し」で、貿易庁(翌年、通商産業省に統合)長官に就任(在任2か月半)。

1950(昭和25)年 次郎48歳/正子40歳

4月25日、次郎は吉田首相の特使として、池田勇人蔵相とともに渡米。講和会議の実現に向けて根まわしを行なう。6月25日、朝鮮戦争勃発。

1951(昭和26)年 次郎49歳/正子41歳

4月、米大統領トルーマンにより、マッカーサーがすべての任を解かれる。5月1日、次郎は東北電力会長に就任。《国家の急務は、なるべく早く、なるべく沢山の電気を、なるべく安く開発することである》(「蛙の考え」)。8月31日、首席全権委員顧問として講和会議に出席するため、首席全権委員である吉田首相らと渡米。9月8日、対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)調印(翌年4月28日発効)に立ち会う。《調印の時も、演説の時も、総理の態度は本当に立派だった。その姿を見ながら、総理はやっぱり昔の人だなという感じが強かった。昔の人はわれわれと違って、出るべきところに出ると、堂々とした風格を出したものだ。総理が、自分のポケットからペンを出してサインしたのも、いかにも一徹な総理らしかった》(「講和会議に随行して」)。

1952(昭和27)年 次郎50歳/正子42歳

11月19日、次郎は外務省顧問に就任。吉田首相の特使として渡米。軽井沢ゴルフ倶楽部理事に就任。

1953(昭和28)年 次郎51歳/正子43歳

2月、次郎は吉田首相の特使としてひと月半にわたりヨーロッパ諸国を視察。8月8日、次郎の母・芳子死去。《私の命の中に大きな真空地帯が出来たと同じで、この真空地帯は私の生の続くかぎり、永久にこのままでいることには間違いはない》(「嫌なことはこれからだ」)。10月、正子の父・愛輔没(88歳)。《父にとっては、悔ゆるところなき一生だったに違いない。たいした仕事は出来なくても、天から授かったたまものを、十分にいかし得た人間として、やはり一種の人物ではなかったかと思う》(「金平糖の味」)。正子は『能面』の出版に向け、この頃から能面を求めて各地を旅する。

1954(昭和29)年 次郎52歳/正子44歳

6月19日、次郎が心血を注ぐ只見川ダムのうち、上田発電所の湛水式が行なわれる。会津と縁の深い秩父宮妃も臨席された。

1956(昭和31)年 次郎54歳/正子46歳

正子は銀座にある染織工芸の店「こうげい」の直接経営者となる。《商品というものは一種の生きもので、こちらが生きていれば向うも生き生きする。私がくたびれて元気のない日は、店もじめじめ活気がない。お客様を喜ばすとは、自分がつねに明るい気持を保つことにほかならないと遅まきながらさとったのである》(「目下『あきない』勉強中」)。「こうげい」からは田島隆夫、古澤万千子らすぐれた工芸作家が育つ。

1957(昭和32)年 次郎55歳/正子47歳

11月、正子はダヴィッド社より『韋駄天夫人』を刊行。《読み返してみると、どれ一つとして韋駄天ならざるはない。で、その題をとることにしたが、表紙の絵は梅原先生が、わざわざ私の為に描いて下さった。題字も書いて頂いた。いわば失敗のたまもので、深く感謝する次第である》(『韋駄天夫人』あとがき)。《「韋駄天」というのは、私が方々駆けずり廻るので、青山二郎さんがつけた綽名で、一時は「韋駄天お正」と呼ばれる二つ名前の姐ちゃんだったこともある》(『白洲正子自伝』)。

1959(昭和34)年 次郎57歳/正子49歳

10月28日、次郎は東北電力会長を退任。以後、荒川水力発電会長、大沢商会会長等を歴任、大洋漁業、日本テレビの社外役員、S・G・ウォーバーグ顧問等をつとめるが、政財界の第一線からは身を退く。正子はこの秋、ペルシャ、スペイン、ハンガリーなどへ旅行。

1963(昭和38)年 次郎61歳/正子53歳

8月、正子は求龍堂より『能面』を刊行。翌年、同書により第15回読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞。

1964(昭和39)年 次郎62歳/正子54歳

東京オリンピック開催中の10月、正子は西国三十三ヵ所観音巡礼の旅に出る。《今から思うと気羞しいが、近江の山の上から、こがね色の稲田の中を、新幹線が颯爽と走りすぎるのを見て、優越感にひたったものだ。お前さんはすぐ古くなるだろうが、こっちは千数百年を生きた巡礼をしてるんだ、ざまぁ見ろ、といいたい気分であった》(『白洲正子自伝』)。

1965(昭和40)年 次郎63歳/正子55歳

3月、正子は淡交新社より『巡礼の旅――西国三十三ヵ所』(後に『西国巡礼』と改題)を刊行。《私はなるべく旧道を歩いて登ることにしたが、頂上へついてほっとすると、きまって目の前に高い石段が現れる。最後の所が一番辛かった。これは浄土にはそうたやすく行けない仕組かと解したが、そうして辿りついた舞台からの眺めは格別で、いかに無信仰の私でも、同じような体験を、三十三度も重ねては、浄土というものの存在を、いやでも認めないわけには行かなかった》(「日本のもの・日本のかたち」)。

1966(昭和41)年 次郎64歳/正子56歳

正子は「明恵上人」を、「学鐙」に1年間連載(翌年『栂尾高山寺 明恵上人』として講談社より刊行)。

1969(昭和44)年 次郎67歳/正子59歳

正子は「かくれ里」を、「芸術新潮」1月号より、約2年にわたり連載(24回)。

1970(昭和45)年 次郎68歳/正子60歳

銀座「こうげい」を知人に譲る。《はじめは馬鹿にしていた小林さんや青山さんも、軌道に乗ってからはしょっ中来て、外部から応援したり、注意を与えて下さるようになった。一時はクラブのような有様を呈し、その時期が「こうげい」としてはもっともたのしく、充実した時代であったと思う。そのうち私は原稿を書くのが忙しくなり、きものも特別な人たちしか作らないようになって、職人さんたちの多くも亡くなってしまったため、自然解消のようなかたちになった。次郎は「後継者」をつくらないといって不機嫌だったが、はじめから後つぎのできるような性格の店ではなかった。止めるについては、私もずい分悩んだが、昭和三十年ごろから四十五年までのほぼ十五年間に、口では言えないほどのさまざまの経験をした。いや、させて頂いた。心の底からありがたいと感謝している》(『白洲正子自伝』)。

1971(昭和46)年 次郎69歳/正子61歳

12月、正子は新潮社より『かくれ里』刊行。《秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである。近頃のように道路が完備すると、旧街道ぞいの古い社やお寺は忘れられ、昔は賑やかだった宿場などもさびれて行く。どこもかしこも観光ブームで騒がしい今日、私に残されたのはそういう場所しかない》(『かくれ里』)。同書にて翌年、第24回読売文学賞(随筆・紀行部門)を受賞。

1972(昭和47)年 次郎70歳/正子62歳

正子は「近江山河抄」を「芸術新潮」8月号より連載(10回、74年2月、同名単行本を駸々堂出版より刊行)。

1974(昭和49)年 次郎72歳/正子64歳

正子は「十一面観音巡礼」を「芸術新潮」1月号より連載(16回、翌年12月、同名単行本を新潮社より刊行)。

1976(昭和51)年 次郎74歳/正子66歳

次郎は軽井沢ゴルフ倶楽部常務理事に就任。正子はこの春、対談のため加藤唐九郎を訪ねる。

1979(昭和54)年 次郎77歳/正子69歳

正子は「日本のたくみ」を「芸術新潮」1月号より連載(19回、81年12月、同名単行本を新潮社より刊行)。3月27日、骨董だけにとどまらず人生の師でもあった青山二郎死去(77歳)。《骨董界という地獄は、一度堕ちたらたとえつまらぬものでも買わずにはいられなくなるもので、そこまで行けば真物だ。ジィちゃんは真物の中の真物として死んだのである》(『いまなぜ青山二郎なのか』)。

1980(昭和55)年 次郎78歳/正子70歳

次郎はかけがえのない親友ロバート・セシル・ビングとロンドンで最後の時を過ごす。9月22日、河上徹太郎死去(78歳)。

1982(昭和57)年 次郎80歳/正子72歳

次郎は軽井沢ゴルフ倶楽部の常務理事制廃止にともない、理事長に就任。

1983(昭和58)年 次郎81歳/正子73歳

3月1日、家族ぐるみの付き合いだった小林秀雄死去(80歳)。《突っぱり屋の次郎は、あまり面には表わさなかったが、ふとした夕暮などに、「小林も今も死ななくてもよかったのになあ」と呟くことがあり、そういう時の彼はほんとうに淋しそうに見えた》(『遊鬼』)。

1984(昭和59)年 次郎82歳/正子74歳

青土社より『白洲正子著作集』全7巻の刊行がはじまる。

1985(昭和60)年 次郎83歳/正子75歳

秋、それまでふたりで旅することのなかった夫妻が軽井沢に出かける。つづいて11月16日より伊賀・京都を旅行。帰宅して2日後の26日夕、次郎が身体に変調をきたして入院。11月28日、次郎死去。《遺言により、葬式は行わず、遺族だけが集って酒盛をした。彼は葬式が嫌いで、知りもしない人たちが、お義理で来るのがいやだ、もし背いたら、化けて出るぞ、といつもいっていた。そういうことは書いておかないと、世間が承知しないというと、しぶしぶしたためたのが、「葬式無用 戒名不用」の二行だけである》(『遊鬼』)。

1986(昭和61)年 正子76歳

「西行」を「芸術新潮」4月号より連載(20回、88年10月、同名単行本を新潮社より刊行)。

1987(昭和62)年 正子77歳

初めて友枝喜久夫(当時79歳)の能「江口」を観る。《バレエとお能とでは天と地ほどの相違があるが、私にこの世のものならぬ美の神髄を見せてくれたのは、あとにも先にもバレエのアンナ・パヴロヴァと、能楽の友枝喜久夫しかいない》(『白洲正子自伝』)。白内障の手術のため入院する。

1989(昭和64)年 正子79歳

秋、渋谷の西武百貨店に染織さろん「こうげい」を開く。

1990(平成2)年 正子80歳

「いまなぜ青山二郎なのか」を、「新潮」2月号より連載(14回、翌年7月、同名単行本を新潮社より刊行)。

1991(平成3)年 正子81歳

「白洲正子自伝」を「芸術新潮」1月号より約3年半にわたり連載(31回。94年12月、同名単行本を新潮社より刊行)。日本文化の継承・発展に尽くした功績により第7回東京都文化賞を受賞。11月、愛犬・奈々丸の鎖が足首にからまって転倒。左腕を骨折し3か月入院。

1994(平成6)年 正子84歳

「両性具有の美」を、「新潮」1月号より連載(16回、97年3月、同名単行本を新潮社より刊行)。

1995(平成7)年 正子85歳

3月、渋谷西武百貨店の「こうげい」を閉店。5月、求龍堂より『白洲正子 私の骨董』刊行。

1998(平成10)年 正子88歳

6月、『ビルマの鳥の木』(多田富雄著、新潮文庫)に解説「多田先生のこと」を執筆。絶筆となる。12月26日、肺炎のため入院先の日比谷病院にて死去。

年譜作成:須藤孝光